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目录
1、玉勝間【たまかつま】
2、菅茶山 【かん?ちゃざん】
3、梁川星厳【没查到】
4、頼山陽【らいさんよう】
5、玉池吟社(没有读音)
6、寝惚先生 【ネボケセンセイ】
7、銅脈先生 【どうみゃくせんせい】
8、琴歌譜 【きんかふ】
9、歌垣 【うたがき】
10、江談抄【ごうだんしょう】
11、打聞集【うちぎきしゅう】
12、古事談【こじだん】
13、出羽弁【いでわのべん】
14、周防内仕 没查到
15、仲雄王【なかおおう】
16、菅家文草【かんけぶんそう】
17、菅家後集【かんけこうしゅう】
18、荻原朔太郎【没查到】
19、中里介山 【なかざと?かいざん】
20、大乗小説
21、大菩薩峠【だいぼさつとうげ】
22、宮本武蔵【没查到读音】
23、大仏次郎【おさらぎじろう】
24、黒岩涙香【くろいわ?るいこう】
25、江戸川乱歩【えどがわらんぽ】
26、捕物帳【とりものちょう】
27、小林多喜二【こばやしたきじ】
28、横光利一【よこみつりいち】
29、小林秀雄【こばやし ひでお】
30、服部撫松【はっとり?ぶしょう】
31、东京新繁盛集(東京新繁昌記 【とうきょうしんはんじょうき】)
32、自由太刀余波鋭鋒【じゆうのたちなごりのきれあじ】
33、澱河歌【没查到】
34、川柳評万句合【没查到】
35、呉陵軒可有【ごりょうけんかゆう】
36、生白堂行風【せいはくどう?こうふう】
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1、玉勝間【たまかつま】
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一( 名 )〔「たま」は美称〕 目の細かい籠(かご)。 →?かつま二( 枕詞 )「勝間」の蓋と身とが合うところからとも,編み目が固く編み合わされてしまっていることからともいい,「逢ふ」「安倍島山」「島熊山」などにかかる。 「 -逢はむと言ふは誰なるか/万葉集?2916」 「 -島熊山の夕暮れに/万葉集?3193」
2、菅茶山 【かん?ちゃざん】
生年: 寛延1.2.2 (1748.2.29)
没年: 文政10.8.13 (1827.10.3)
江戸中?後期の漢詩人。本来は菅波氏だが,修姓して菅。名は晋帥,字は礼卿,通称は太中(太仲とも)。茶山は号。 諡 を文恭先生。備後国(広島県)神辺で農業と酒造業を営んだ菅波久助(号を樗平)の長男。明和3(1766)年19歳で上洛し,那波魯堂に入門して朱子学を修めた。以後,しばしば上方に遊び,頼春水,葛子琴,中井竹山など大坂の混沌詩社の詩人たちと交遊した。天明初年34歳のころ故郷神辺に黄葉夕陽村舎と名付ける私塾を開き,村童の教育に携わることになった。これはのちに郷塾となり広く知られるようになって名も廉塾と改め,頼山陽,北条霞亭などが塾頭を務めた。詩人としては宋詩風の写実的な田園風俗詩を得意とし,村夫子然とした人柄で人々に親しまれた。詩文集に『黄葉夕陽村舎詩』,随筆に『筆のすさび』などがある。<参考文献>富士川英郎『菅茶山と頼山陽』,『菅茶山』
(揖斐高)
3、梁川星厳
查不到
4、頼山陽【らいさんよう】
1781*-1832 江戸時代後期の儒者。
安永9年12月27日生まれ。頼春水の長男。母は頼静子。江戸で尾藤二洲(じしゅう)らにまなぶ。21歳で安芸(あき)広島を出奔,脱藩の罪で自宅幽閉となる。赦免ののち,京都で開塾。詩,書に才能を発揮。幽閉中に起稿した「日本外史」は,幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。天保(てんぽう)3年9月23日死去。53歳。大坂出身。名は襄(のぼる)。字(あざな)は子成。通称は久太郎。別号に三十六峰外史。著作はほかに「日本楽府(がふ)」など。
【格言など】われに一腔(いっこう)の血あり。其(その)色はまさに赤く,其性は熟す(結核闘病中にうたった「喀血の歌」)
5、玉池吟社(没有读音)
【大窪詩仏】より
…南宋の詩を典範とする,日常的な詩情に富む平明な詩風で人気を集め,みずから南宋詩の紹介,啓蒙につとめた。のちには神田お玉ヶ池のほとりに詩社玉池(ぎよくち)吟社を開いて多くの後進を育て,19世紀前半の江戸の漢詩壇の大御所的存在であった。著書に詩集《詩聖堂詩集》(初編1809,2編1828,3編1838),詩論《詩聖堂詩話》(1799)などがある。…【梁川星巌】より
…1817年(文化14)帰郷,作詩するとともに弟子をとった。20年(文政3)女流漢詩人紅蘭と結婚,四方を遊歴し,32年(天保3)江戸神田お玉ヶ池に玉池吟社(ぎよくちぎんしや)を開き,江戸詩壇に指導的地位を占め,藤田東湖,佐久間象山らと交わった。46年(弘化3)京都に移居し,悠々自適のかたわら梅田雲浜,頼三樹三郎らと時局を論じた。…※「玉池吟社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
6、寝惚先生 【ネボケセンセイ】
大田南畝(おおたなんぽ)の狂号。
[1749~1823]江戸後期の狂歌師?戯作者。江戸の人。名は覃(たん)。別号は蜀山人(しょくさんじん)?四方赤良(よものあから)。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。
7、銅脈先生 【どうみゃくせんせい】
1752-1801 江戸時代中期-後期の狂詩作者。
宝暦2年生まれ。京都聖護院(しょうごいん)宮家の畠中正冬の養子。諷刺のきいた狂詩で江戸の大田南畝(なんぽ)とならび称された。儒者那波魯堂(なわ-ろどう)の門人でもある。享和元年6月2日死去。50歳。讃岐(さぬき)(香川県)出身。本姓は都築。名は正盈(まさみつ)。字(あざな)は子允。通称は政五郎,頼母(たのも)。別号に観斎,寛斎,片屈(へんくつ)道人。狂詩集に「太平楽府(たいへいがふ)」など。
畠中観斎【はたけなかかんさい】
銅脈先生(どうみやくせんせい)
8、琴歌譜 【きんかふ】
宮中の大歌所(おおうたどころ)で教習した,宮廷歌曲伴奏の和琴(わごん)(やまと琴,6弦)の譜本。全1巻。1924年(大正13)陽明文庫蔵の写本で発見された。天元4年(981)写の奥書に大歌師多安樹(おおのやすき)の名など見え,多氏に関係深いらしいが,筆者不明。原本の成立は平安初期か,編者未詳,筆写当時すでに希有の書とされた。漢文の序文は中国の古典音楽論を引いて音楽を世界の調和のかなめとし,特に琴歌を高雅として,律令の法と礼楽とを相関させる。
9、歌垣 【うたがき】
①古代の習俗。男女が山や海辺に集まって歌舞飲食し,豊作を予祝し,また祝う行事。多く春と秋に行われた。自由な性的交わりの許される場でもあり,古代における求婚の一方式でもあった。人の性行為が植物にも生命力を与えると信じられていたと思われる。のち,農耕を離れて市でも行われるようになった。かがい。 「果して期りし所にゆきて-の衆(ひとなか)に立たして/日本書紀 武烈訓注」
②
奈良時代,大勢の男女が歌い舞う宮廷の行事。① が宮廷化されたもの。
10、江談抄【ごうだんしょう】
平安末期の説話集。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼(さねかね)が筆録したもの。ただし間接的な聞書,また実兼以外の人物による筆録をも含んでいる。匡房の晩年における談話が中心になっているが,かなり早い時期の言談,あるいは匡房の没後のまた聞きの筆録も加わっており,12世紀の初頭,匡房の没後あまりへだたらないころの成立と考えられる。《江談》《水言鈔(すいげんしよう)》ともいわれ,おもに漢文で記されている。
11、打聞集【うちぎきしゅう】
平安末期の仏教説話集。大正末年,滋賀県の金剛輪寺で発見,紹介された。1巻。表紙に〈打聞集下帖〉とあり,上巻あるいは上?中巻が失われている。編者および成立年時は未詳であるが,表紙に〈長承三年甲寅〉〈桑門栄源〉の記載がある。本文と同筆で,本文に誤写や訂正が見られることから,1134年(長承3)に栄源が祖本を書写したもので,原本はこのときからそれほどへだたらないころに成立したものと考えられる。目録に記された27話のほか,《大鏡》《大和物語》からの抄出,および覚書らしい断片的記事とからなる。
12、古事談【こじだん】
鎌倉初期の説話集。源顕兼(あきかね)編。1212年(建暦2)以後15年(建保3)2月までに成立。6巻。説話を〈王道?后宮〉〈臣節〉〈僧行〉〈勇士〉〈神社〉〈仏寺〉〈亭宅〉〈諸道〉に分類集録し,その形態は中国の類書に似る。462話収録。《中外抄》《富家語(ふけご)》《江談抄(ごうだんしよう)》《扶桑略記(ふそうりやつき)》をはじめとする諸種の先行文献の記事を抄出したものが中心となっている。説話に対しての編纂者の評語,教訓の類は付されていない。
13、出羽弁【いでわのべん】
生年: 生没年不詳
平安時代の歌人。出羽守平季信の娘。後一条天皇の中宮威子やその娘の後冷泉天皇の中宮章子などに仕え,『栄華物語』では「いとをかしうすき者なるものから,有心なる(風流を解し思慮深い)」と評され,優れた女房として重んじられた。威子の死後,人びとに,出羽弁は悲しみのあまり死ぬのではないか,といわれたほど主人思いでもあった。歌人として,源経信の一族とはことに親しく,また『栄華物語』巻31から36は,現存する家集『出羽弁集』とは別の彼女の家集がもとになっているといわれる。代表歌は,忍ぶ恋を歌った「忍ぶるも苦しかりけり数ならぬ身には涙のなからましかば」など。<参考文献>松村博司「出羽弁の生涯」(『歴史物語考その他』)
14、周防内仕 没查到
15、仲雄王【なかおおう】
?-? 平安時代前期の官吏,漢詩人。
弘仁(こうにん)9年(818)の勅撰漢詩集「文華秀麗集」の主撰者となり,序文をかき,みずからの詩13首もおさめる。その時の官職は大舎人頭(おおとねりのかみ)兼信濃守(しなののかみ)。藤原冬嗣(ふゆつぐ),良岑安世(よしみねの-やすよ),最澄,空海らと親交があった。
16、菅家文草【かんけぶんそう】
菅原道真の漢詩文集。12巻。900年(昌泰3)成立。前半6巻は詩468首を年次順に,後半6巻は散文161編をジャンル別に集める。道真は政府高官であった得意時代,〈月夜に桜花を翫(もてあそ)ぶ〉(385),〈殿前の薔薇を感(ほ)む〉(418)など艶冶巧緻の作を多く詠む(作品番号は《日本古典文学大系》所収のものによる)。なかんずく,〈春娃(しゆんわ)気力無し〉(148),〈催粧〉(365)の詩と序は,宮廷専属歌舞団の舞姫の官能的な姿態を描いて,王朝妖艶美の頂点に立つもの。
17、菅家後集【かんけこうしゅう】
菅原道真の漢詩集。1巻。903年(延喜3)成立。大宰府流謫(るたく)時代の作品46編を集める。《菅家後草(こうそう)》とも呼ぶ。中国の模倣を脱し,日本の詩人が日本人の絶望体験を,血を吐くような怨念で表現した牢獄からの遺言詩集で,そのすべてが珠玉,絶唱である。〈門を出でず〉〈開元の詔書を読む〉など悲憤慷慨する諸作は真率の詩心を吐露したもの。また〈北窓三友詩を詠む〉〈叙意一百韻〉は配所の生活を描写しながら,どん底で呻吟する人間の魂の告白。
18、荻原朔太郎
查不到
19、中里介山 【なかざと?かいざん】
生年: 明治18.4.4 (1885)
没年: 昭和19.4.28 (1944)
明治から昭和時代の小説家。本名は弥之助。介山は号である。神奈川県西多摩郡(東京都)生まれ。父は弥十郎,母はハナ。西多摩小学校高等科卒。電話交換手,小学校教員を経て,日露戦争下の明治37(1904)年,反戦詩「乱調激韵」を発表。39年,都新聞社に入り,大正2(1913)年より長編小説『大菩薩峠』を『都新聞』その他に連載,昭和16(1941)年まで書き継ぐも未完。この大作は一般に大衆文学の先駆けと評価されるが,介山自身は「大乗小説」と称した。第2次世界大戦下の昭和17年,日本文学報国会への入会を拒否。旅を愛した孤高の作家で,晩年は農本主義に傾いた。著作集に『中里介山全集』全20巻(1970~72)がある。
(古田島洋介)
20、大乗小説
【大菩薩峠】より
…登場人物も多岐にわたり,竜之助,兵馬のほか怪盗七兵衛,進歩派の駒井能登守,神尾主膳,間の山(あいのやま)のお玉ことお君,精悍無比な米友や小坊主弁信など特異な人物群像が多く,時代長編の一大巨峰として位置し,それ以後の大衆文学に深い影響を与えた。ニヒル剣士竜之助像の創造には作者なりの時代批判があり,善悪の彼岸に生きようとする意図もあったが,しだいに思想性,宗教性を加え,作者はこれを〈大乗小説〉と称した。作中でお玉がうたう〈間の山節〉は人の世の無常を示すと同時に全巻を貫くモティーフをも現しており〈上求菩提(じようぐぼだい)?下化衆生(げけしゆじよう)〉の具象化としても読める。…
21、大菩薩峠【だいぼさつとうげ】
山梨県北東部,秩父山地にある峠。標高1897m。西の笛吹川支流,東の多摩川上流の分水嶺で,北に大菩薩嶺(2057m)がある。甲州道中の脇往還,青梅街道の第一の難所であったが,明治初期に青梅街道が北側の柳沢峠(1472m)をまわるようになって街道からは外れた。中里介山の長編小説《大菩薩峠》によって有名になり,文学碑がある。富士山,南アルプス,秩父連峰の眺めがよく,ハイキングの適地。近くには山荘もあって宿泊ができ,中央本線塩山駅から登山口の裂石までバスの便がある。
だいぼさつとうげ【大菩薩峠】
中里介山の代表的長編小説。1913年に《都新聞》に連載されたのを皮切りに《東京日日新聞》《国民新聞》《読売新聞》《隣人之友》などに書き継がれ,書下ろしを加えて第41巻まで執筆されたが,44年に作者の病没で未完となった。 作者みずからこの作品の趣意を説明して〈人間界の諸相を曲尽して,大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を……うつし見ん〉と述べているが,特定の主人公はなく,音無しの構えの無明の剣客机竜之助も一点景にすぎない。
22、宮本武蔵【没查到读音】
生年: 天正12 (1584)
没年: 正保2.5.19 (1645.6.13)
江戸前期の剣客。二刀流(円明流,二天一流,宮本流)の開祖。名は玄信,号は二天。生年は『五輪書』序文から逆算した天正12(1584)年説のほかに養子伊織の作成した『宮本家系図』による同10年説がある。生地も美作国吉野郡讃母村字宮本(岡山県英田郡大原町宮本)のほかに播州(兵庫県)説もある。父は平田武仁(無二斎)。母は新免宗貞の娘於政と別所林治の娘率子の2説がある。剣道史上著名な剣客だけに,実録,小説,劇,映画などによってヒーロー像が創られてきたが,前半生の事績には不明な部分が多い。幼少のころから兵法に心がけ,13歳ではじめて新当流の有馬喜兵衛と試合して勝ち,以後六十余たびの勝負に一度も負けたことはなかった。慶長17(1612)年に舟島(巌流島=下関市)で佐々木小次郎と決闘したのち,大坂両陣に参戦,その後諸国を遍歴し,事績が明らかになるのは寛永11(1634)年,51歳以後である。
小倉藩主小笠原忠真の客分となり,島原の乱に際しては養子伊織と共に軍監として出陣する。57歳のとき肥後熊本藩主細川忠利の知遇を得て,客として熊本千葉城址に住み『兵法三十五箇条』をまとめ,60歳で熊本西郊岩戸山の霊巌洞にしばしば籠り,座禅三昧の暮らしを送り,兵法伝書『五輪書』を執筆した。『五輪書』は二天一流の剣の道をつづるとともに剣禅一如の思想的境地をしめす著作だった。さらに『独行道十九条』をまとめ自戒とした。その1週間後没した。熊本市竜田町弓削の武蔵塚がその墓とされる。武蔵は剣のほかに書,画,金工などにもすぐれ,非凡な才をしめした。特に水墨画には気魄のこもった鋭い表現がみられ武人画家の最後を飾る。代表作に『鵜図』『芦雁図』『枯木鳴鵙図』などが伝えられる。<参考文献>森銑三『宮本武蔵の生涯』,岡田一男?加藤寛編『宮本武蔵のすべて』
(尾崎秀樹)
23、大仏次郎【おさらぎじろう】
1897-1973 大正-昭和時代の小説家。
明治30年10月9日生まれ。野尻抱影の弟。はじめ外務省につとめる。大正13年からの「鞍馬天狗(くらまてんぐ)」の連作でみとめられ,「赤穂(あこう)浪士」で大衆文学のイメージをかえた。昭和25年「帰郷」で芸術院賞。「パリ燃ゆ」,絶筆「天皇の世紀」などの史伝ものこした。芸術院会員。39年文化勲章。44年菊池寛賞。昭和48年4月30日死去。75歳。神奈川県出身。東京帝大卒。本名は野尻清彦。
【格言など】死は救いと言いながら,そうは悟りきれぬものである(「砂の上に」)
24、黒岩涙香【くろいわ?るいこう】
生年: 文久2.9.29 (1862.11.20)
没年: 大正9.10.6 (1920)
明治大正期の新聞記者,探偵小説作家。本名は周六。涙香という号は主に探偵小説で用い,新聞では民鉄,黒岩大などと称した。土佐(高知県)の郷士,黒岩市郎と信子の次男に生まれる。幼少時,漢学を学び,のちに上京。慶応義塾などいくつかの学校に入学したが,正規に卒業はしていない。折からの自由民権運動に参加し,明治15(1882)年には北海道開拓使官有物払い下げ問題に関する論文が官吏侮辱罪に問われ有罪の判決を受けた。19年,小新聞『絵入自由新聞』の主筆となり,論文や探偵小説を掲載,次第に筆名を高める。22年『都新聞』に移り,多数の小説を連載し評判を得る。25年,『都新聞』社長と対立して退社し,同年『万朝報』を創刊した。同紙は,「鉄仮面」「噫無情」などの黒岩の連載小説と上流階級の腐敗を暴露した「畜妾調」などのセンセーショナルなスキャンダル記事によって都市中下層民の人気を博し,一躍東京第一の発行部数(明治32年の発行部数9万5000部)を得るまでになった。
33年ころから,内村鑑三,幸徳秋水,堺利彦らの進歩的思想家を入社させ,青年学生層を読者として開拓する方針に転じ,34年には,理想団と称する団体を組織し,社会改良運動を起こそうとした。しかし,日露戦争をめぐって対立し,黒岩が開戦論に踏み切ったことから,非戦論の内村らは退社した。明治末期,『万朝報』は次第に他紙との営業競争に後れをとるようになったが,大正初期の憲政擁護運動やシーメンス事件では最も急進的立場に立ち,民衆運動を組織化するとともに新聞キャンペーンをリードした。しかし,黒岩が第2次大隈内閣に接近したころから『万朝報』の声望は低下し,黒岩も新聞経営への意欲を衰弱させていった。黒岩は新聞記者としても探偵小説作家としても読者の意識を鋭敏にとらえる独特の才覚をもっていた。<著作>『明治文学全集47』<参考文献>涙香会編『黒岩涙香』
25、江戸川乱歩【えどがわらんぽ】
探偵小説作家,評論家。本名平井太郎。筆名はエドガー?アラン?ポーのもじり。三重県生れ。早稲田大学政治経済学部卒業。在学中から英米の探偵小説に関心を抱き,卒業後十数種の職業についた。1923年に《二銭銅貨》を発表し,日本における創作探偵小説の基盤を築き,続いて推理を主軸にした《心理試験》(1925),《陰獣》(1928),《石榴(ざくろ)》,怪奇的な《人間椅子》(1925),《鏡地獄》《パノラマ島奇譚》(1926‐27),幻想的な《押絵と旅する男》(1929)などで,探偵小説という新分野を確立した。
26、捕物帳【とりものちょう】
江戸時代の目明(めあか)しなどが捕物(罪人逮捕)について記した覚書。転じてそれをテーマとした大衆文学作品をさす。岡本綺堂《半七捕物帳》,野村胡堂《銭形平次捕物控》,佐々木味津三《右門捕物帖》,坂口安吾《安吾捕物帳》,城昌幸《若さま侍捕物手帖》,久生十蘭《顎十郎捕物帖》などがある。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
27、小林多喜二【こばやしたきじ】
1903‐33(明治36‐昭和8)
小説家。秋田県の農家に生まれたが,生家の没落により小樽に移住。伯父のパン工場の手伝いをしながら小樽商業を経て小樽高商に進み,卒業後北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。商業学校時代から詩,短編小説などの制作をはじめ,トルストイ,ドストエフスキー,ゴーリキーなどを読み,また志賀直哉に私淑しつつ作家の道を志す。さらに社会科学を学び,労働運動にかかわり,プロレタリア文学運動に参加。1928年3月,三?一五事件直後,全日本無産者芸術連盟(ナップ)が成立したが,その機関誌《戦旗》に《一九二八年三月十五日》を発表して注目され,ついで《蟹工船》(1929)により革命的リアリズムの作家として地位を確立。
28、横光利一【よこみつりいち】
1898-1947 大正-昭和時代の小説家。
明治31年3月17日生まれ。大正13年川端康成らと「文芸時代」を創刊,新感覚派の旗手となる。のち心理主義に転じた。昭和10年純文学と通俗小説の融合をとなえた「純粋小説論」を発表。11年の渡欧をきっかけに長編「旅愁」にとりかかったが,昭和22年12月30日未完のまま死去。50歳。福島県出身。早大中退。本名は利一(としかず)。作品はほかに「日輪」「上海」「機械」など。
【格言など】純文学にして通俗小説,このこと以外に,文芸復興は絶対に有り得ない(「純粋小説論」)
29、小林秀雄【こばやし ひでお】
1902?1983(明治35年?昭和58年)【文芸評論家】文芸評論を芸術の高みに。 日本の近代批評を確立した不世出の評論家。昭和期の文芸評論家。東京都出身。東大卒。在学中に中原中也らと知り合う。1929年(昭和4)「様々なる意匠」で「改造」の懸賞論文の二席となり、以後文学、美術、音楽、哲学と単なる文芸批評と広い分野の評論活動を行った。1933年「文学界」創刊に参加。「様々なる意匠」「無常といふ事」「モオツアルト」、戦後は「近代絵画」「考へるヒント」、そして晩年の大著「本居宣長」など、自我の解析を軸とした創造的近代批評の確立者として大きな足跡を残した。1967年文化勲章受賞。
30、服部撫松【はっとり?ぶしょう】
生年: 天保12.2.15 (1841.4.6)
没年: 明治41.8.15 (1908)
明治時代,開化期を代表する文筆家。本名誠一,撫松は号。二本松藩(福島県)の儒官の家に生まれ,儒学教授を勤める。明治2(1869)年公用人として東京勤務。4年廃藩後『東京新繁昌記』(1874~76)を執筆。開化の世相を描くのに自由で猥雑な造語修辞,口語体のルビによる変体漢文を駆使,絶大な人気を誇る。その勢いで以後『東京新誌』(1876)を皮切りに発禁や廃刊にめげず雑誌を次々と発行。戊辰戦争来の反官意識や社会諷刺は『江湖新報』(1880)などの政論雑誌へ展開した。立憲改新党にかかわり『稚児桜』(1887)などの政治小説も書く。29年以後仙台の中学の漢文教師。教え子に吉野作造らがいる。
31、东京新繁盛集(東京新繁昌記 【とうきょうしんはんじょうき】)
明治初期の随筆。服部撫松 (はっとりぶしょう。 1841~1908) 著。6冊。 1874~76年刊。寺門静軒の『江戸繁昌記』にならって明治維新後の文明開化の波に洗われる東京の世相を,破格の漢文戯作体で書き綴ったコント風の記録。
32、自由太刀余波鋭鋒【じゆうのたちなごりのきれあじ】
シェークスピアの「ジュリアス=シーザー」を坪内逍遥が翻訳したもの。1884年(明治17)刊。
33、澱河歌
没查到
34、川柳評万句合
没查到
35、呉陵軒可有【ごりょうけんかゆう】
川柳評前句付作者。俳号木綿。号は御了簡可有(あるべし)の口ぐせを,呉服商に当てた戯号。上野山下桜木連の中心人物で,この号を用いて《柳多留(やなぎだる)》を編んだ。初代川柳の名が不滅になったのもこの《柳多留》によるところが大きい。終生川柳と行を共にし協力した分身的存在である。作品は《柳多留》第9編以後,また《やない筥(ばこ)》《柳籠裏》に見えて,力量もあるが,歴史的な位置は《柳多留》編集に尽きる。惜しむらくは,初代川柳に先立って世を去り,川柳興行の衰退と没後の混乱の処理に当たれなかったことである。
36、生白堂行風【せいはくどう?こうふう】
生年: 生没年不詳
江戸時代の狂歌師。没年は豊蔵坊信海が没した元禄1年(1688)以前。大坂高津の裕福な町人で,姓は朝倉氏,字は懐中。はじめ歌道を学び,明暦1(1655)年には,中院通村に称賛されたという。俳諧にも親しんだが本領は狂歌にあり,寛文6(1666)年『古今夷曲集』全10巻を刊行した。この書は狂歌の書として初めて高位高官より庶民に至るまでの歌を集成したもので,作者は240人余,歌数は1050首を超えた大選集であり,書名は『古今和歌集』に拠っている。次いで『後撰夷曲集』全10巻(1672),『銀葉夷歌集』全10巻(1679)を刊行した。その歌風は,のちの江戸狂歌人からは平板凡庸と不評を買ったが,浪速狂歌壇の先駆的役割を担った人物である。